2011年 4月3日(日) (アメリカ現地時間)
私が大変お世話になった恩師である、山田敏郎先生が永眠されました。
死因は事故でした。
山田敏郎先生のご冥福をお祈りし、追悼の意をこめて、いままで私がお世話になったお話を、何回かに亘ってさせていただきたいと思います。
私が大学を卒業して2年が過ぎた頃、日々の診療をしている中、日本の歯科に疑問を感じ始めました。
理想と現実のギャップに困惑していました。
保険の範囲内で治療すれば、痛みが取れたり歯が入ったりして、一見治ったように見えるが、
徐々に患者さんの歯はなくなっていっている。
また、見た目も良くない。
しかし保険で理想的な治療をすれば、大赤字が出る・・・・。
そして欧米先進諸国の歯科医療はどうなっているのかが知りたくなってきて、私はアメリカに住んでいる日本人で歯科助手をされている晴美Smithさんという方とメール友達として知り合いました。
晴美さんからいろいろアメリカの歯科事情を教えていただき、ますます日本の歯科が、欧米先進諸国のそれに立ち遅れていることを知りました。
私は数多くの質問を投げかけましたが、晴美さんは「これ以上は私はわからない。直接ドクターに聞いてください」と言われました。
しかし私はアメリカの歯科関係に何のコネクションもありませんし、決して裕福ではありませんでしたから、お金を払って何かの研修をうけることもできませんでした。
また英語が得意でもありませんでした。
そうして悶々として時間だけが過ぎていたある時、晴美さんにこう言われました。
「あなたには、失うものは何もないじゃない。」
目が覚めました。
当時は結婚もしていませんし、自分の医院があるわけでもない。
親の後を継ぐ必要もない。
確かに私に失うものは、何もない。
そう思ったら即、行動に出ました。
神戸市中央図書館に行き、アメリカのイエローページ(日本でいうタウンページ)をひいて、
アメリカのカリフォルニア州で開業している日本人を片っ端から調べました。
なぜカリフォルニア州なのかですが、単純に日本から近かったからというだけです。
そうして片っ端から手紙を送りました。
アメリカの歯科事情を教えてほしい、と。
すると何人かの先生方からお返事をいただきました。
情報に飢えていた私は、また矢継ぎ早に多くの質問を投げかけました。
何度か手紙のやり取りをしているうちに、返信が一人減り、二人減りして、最後にはたった一人の先生だけが残りました。
その先生が、当時カリフォルニア州オレンジカウンティ(郡)のニューポートビーチで開業されていた、
山田敏郎先生でした。
山田敏郎先生は、開業医でありながら、出身大学であるLoma Linda大学の補綴科で臨床准教授として教鞭も取られていました。
また、Nobel Biocare社(世界的に有名なインプラントメーカー)の講師でもありました。
ニューポートビーチは高級住宅地であり(あまりふさわしくない表現かもしれませんが、黄色人種が開業できるようなところではないと先生がおっしゃっていました)、世界的に著名な歯科医師が開業している医療ビルで補綴専門医としてオフィスを構えておられました。
私は手紙の最後に、「ぜひ見学をさせてほしい!」と書きました。
すると山田敏郎先生は、「どうぞ来てください」とお返事をしてくださいました。
そうして私は行ったこともないアメリカに一人で乗り込むこととなり、会ったこともない先生の所に
見学に行くことになったのです。
私が大変お世話になった恩師である、山田敏郎先生が永眠されました。
死因は事故でした。
山田敏郎先生のご冥福をお祈りし、追悼の意をこめて、いままで私がお世話になったお話を、何回かに亘ってさせていただきたいと思います。
私が大学を卒業して2年が過ぎた頃、日々の診療をしている中、日本の歯科に疑問を感じ始めました。
理想と現実のギャップに困惑していました。
保険の範囲内で治療すれば、痛みが取れたり歯が入ったりして、一見治ったように見えるが、
徐々に患者さんの歯はなくなっていっている。
また、見た目も良くない。
しかし保険で理想的な治療をすれば、大赤字が出る・・・・。
そして欧米先進諸国の歯科医療はどうなっているのかが知りたくなってきて、私はアメリカに住んでいる日本人で歯科助手をされている晴美Smithさんという方とメール友達として知り合いました。
晴美さんからいろいろアメリカの歯科事情を教えていただき、ますます日本の歯科が、欧米先進諸国のそれに立ち遅れていることを知りました。
私は数多くの質問を投げかけましたが、晴美さんは「これ以上は私はわからない。直接ドクターに聞いてください」と言われました。
しかし私はアメリカの歯科関係に何のコネクションもありませんし、決して裕福ではありませんでしたから、お金を払って何かの研修をうけることもできませんでした。
また英語が得意でもありませんでした。
そうして悶々として時間だけが過ぎていたある時、晴美さんにこう言われました。
「あなたには、失うものは何もないじゃない。」
目が覚めました。
当時は結婚もしていませんし、自分の医院があるわけでもない。
親の後を継ぐ必要もない。
確かに私に失うものは、何もない。
そう思ったら即、行動に出ました。
神戸市中央図書館に行き、アメリカのイエローページ(日本でいうタウンページ)をひいて、
アメリカのカリフォルニア州で開業している日本人を片っ端から調べました。
なぜカリフォルニア州なのかですが、単純に日本から近かったからというだけです。
そうして片っ端から手紙を送りました。
アメリカの歯科事情を教えてほしい、と。
すると何人かの先生方からお返事をいただきました。
情報に飢えていた私は、また矢継ぎ早に多くの質問を投げかけました。
何度か手紙のやり取りをしているうちに、返信が一人減り、二人減りして、最後にはたった一人の先生だけが残りました。
その先生が、当時カリフォルニア州オレンジカウンティ(郡)のニューポートビーチで開業されていた、
山田敏郎先生でした。
山田敏郎先生は、開業医でありながら、出身大学であるLoma Linda大学の補綴科で臨床准教授として教鞭も取られていました。
また、Nobel Biocare社(世界的に有名なインプラントメーカー)の講師でもありました。
ニューポートビーチは高級住宅地であり(あまりふさわしくない表現かもしれませんが、黄色人種が開業できるようなところではないと先生がおっしゃっていました)、世界的に著名な歯科医師が開業している医療ビルで補綴専門医としてオフィスを構えておられました。
私は手紙の最後に、「ぜひ見学をさせてほしい!」と書きました。
すると山田敏郎先生は、「どうぞ来てください」とお返事をしてくださいました。
そうして私は行ったこともないアメリカに一人で乗り込むこととなり、会ったこともない先生の所に
見学に行くことになったのです。